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陸上自衛隊の航空部隊が、UH-1の武装化研究を経て、AH-1の導入を本格的に考え始めたのは、恐らく1970年初頭位ではないだろうか。丁度 私の父はその頃陸幕勤務で、アメリカ陸軍の攻撃ヘリの運用についての研究もしていたようだった。父の机にはフォート・ラッカー陸軍演習場でのAH-1の訓練資料やベトナム戦でのUH-1武装ヘリの装備資料などを目にすることがあった。攻撃ヘリの有用性はベトナム戦での戦歴以外に、NATOでのシュミレーションで、1機の武装ヘリが20両以上の車両を撃破できるとの研究結果が大きく影響していたはずである。その頃の陸自は「北方重視」であったから、着上陸してくるソ連軍をどのようにして撃破するかが最大の課題だったのだ。AH-1Sの採用と配備計画が出来たのは、恐らく父の陸自勤務が終焉を迎えた頃であり、導入自体にはかかわっていない。1979年(昭和54年度)予算で、試験的に2機のAH-1Sを導入して、テストすることから始まり、最初の12機の導入予算を確保したのは1982年(昭和57年)になってからである。1985年に最初に6機の量産機が防衛庁に収められ、北海道の帯広に第1対戦車ヘリコプター隊が発足した。(2025年8月 記)
↑ 松野主税氏が1979年10月に明野駐屯地で撮影されたAH-1S。松野氏は学生時代時々明野駐屯地を訪れ、試験導入直後のAH-1S 1号機のフライトから撮影されていた。1号機は1979年(昭和54年)6月に明野に納入されて各種試験が実施された。
↑ 最初の6機の量産機が1985年に納入されている事から、これらは明野航空学校と霞ヶ浦分校に優先的に配備されて、パイロットの育成が始まっている。AH-1S/73408/8号機は、1985年に陸自に納入された6機の内の最終機に当たる。立川駐屯地祭では最大の目玉であった。
↑ AH-1Sの主武装の一つATM TOWミサイルの発射筒を装着する隊員。当時ヘルファイヤーミサイルは、1985年アメリカ陸軍に装備が開始されたばかりであり、事実上有線誘導のTOWミサイルが、米軍の対戦車ミサイルの主力であった。J/LAU-194ロケットランチャーの装填数は19発で、70㎜空対地ロケット弾を使用。
↑ 1986年木更津駐屯地祭で展示飛行する霞ヶ浦分校のAH-1S/73408。この1986年には北海道に最初の対戦車ヘリ部隊が完結している。導入ペースも毎年8~9機が導入され、2年に1隊の割で部隊編成がおこなわれていく。AH-1Sの当初の整備予定数は56機であった。
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↑ 1986年小松基地航空祭に展示された陸上自衛隊明野駐屯地のAH-1S/73401 導入初号機。私にとっては初めて見る1号機で、文字が白から黒に統一されていた。アメリカ陸軍仕様のS型は、コックピットのガラスが全て平面に統一され、内側からの視界が歪まないよう考慮されていた。
↑ 1990年海上自衛隊大村航空基地に飛来した第3対戦車ヘリ隊のAH-1S。1990年には既に50機以上のAH-1Sが納入済で、九州の目達原駐屯地には第3対戦車ヘリコプター隊が完結した。恐らく目達原には最初から新迷彩を施されたAH-1Sが配備されている。
↑ 翌年1980年5月に更にもう1機の試験導入機が明野駐屯地に収められ、2機のAH-1Sで様々なテストが繰り返された。この写真も松野主税氏による撮影である。明野駐屯地の格納庫がかなり老朽化していた事も判る写真。格納庫から出されるAH-1Sには、J/LAU-194ロケット弾ポッドを付けている。